アザラシうどんよ永遠に
7月12
アザラシといえば
うどん
ですが
というフレーズに不満を持っている人が多いみたいです、無理もない、自分もよくわからないから、わかるのは多分速水さんくらいだろうと
下の文はかの有名なハムスター慶應07から抜粋した、つまり速水師が手がけた文章を貼り付けたものであって、どうかこれを読んでアザラシうどんの生態について理解をふかめてください。
皆も1度は聞いたことあると思う
昔、アザラシうどんの店を開こうと思っていた時にこのブログに出会えてよかった、多分すぐつぶれていただろうし、それに気づかせてくれた速水さんは僕の命の恩人です、
という言葉の真相が今明らかに
何らかのリアクションを貪って生きていると知った瞬間
自分の持つ種々共同体の中で最も身近で小さい「自分」という
社会が持つ規則とそれに対する呵責を布いて自らを産むという考えの下で
世界と向き合うと都合良し
とかいう偉い人が言っていることに納得したのが
物心ついてから百回目くらいなんやけど
いくら検討を重ねてもアザラシうどん(想像)がどう世界と関係しているのかが
全然わからない。
アザラシうどんという一項が今日の社会システムに有機的にリンクする
必要性とか必然性とか全く見当たらない。
例えば、アザラシチョコであればまだ可能性は残されている。
アザラシをモチーフにしたアザチョンみたいな下らんキャラクターを創造し
キモカワ世代にプロモーチョンをかけるってのは、まあありえる。
しかし、うどんである。
アザラシを食すというエスキモーの食文化と
ひとつの出来合いのうどんという日本の食文化が融合しうるかという点で。
アンコとパンが成立するのはその両者の類稀な懐の深さから相乗効果を生むからであるが、
クセがあり血生臭いアザラシ肉と
ほんのり香るカツオ出汁のうどんが
相容れるというのか、いや相容れない、という修辞疑問なのか、いや修辞疑問ではない。
さらにアザラシうどんが日本の食文化に適応出来るか否かという視座から、
イメージして欲しいのだが
例えば小学生の頃、
土曜日は午前中で授業が終わり急いで帰宅し吉本新喜劇を見ながら
母さんは少し手を抜き抜きのアザラシうどんを作ってくれた。
ありえない。
さらに例えば、下宿生の部屋は実家生の溜り場と化し徹夜で麻雀なんかをして
よし小腹が空いたのでなんか誂えようかと冷蔵庫にアザラシ肉あったよね
うわくっさこれ、やっぱたまらんな、お、ありますあります冷凍うどんも、
あー素材の良さが全然殺しあってる器で為されるジェノサイド
というのはまたありえず、
上述二例は学生や家庭であるがこれが富裕層に向けた状況であればより起こり難いというのは
金持ちが好きな金持ちになったような面持ちでいる下賎な女性てのは大体
WWFのTシャツなんかを弟にプレゼントしたら喜んでいた
みたいな馬鹿な話を可愛く振舞っているからだ。
以上からアザラシうどんは一生日の目に見ずに社会と関係せず
そのまま生まれてしまった名前だけをこのブログを読んだ
紳士淑女の中に一つの無駄な概念として存在するに留まるが、
決して無駄ではないということを一つ例え話を持ち出した上で結びとしよう。
三田祭の土曜日のお昼時にステージでだらしない味の焼き鳥なんかを食っていると
あれれ、ミスター慶應グランプリが始まったよサエコ見て行こうよ、
と言って立ち上がりステージ前方へ行くと次々に紹介されゆく候補者たちの
最後である六番が出てきたときにサエコが「あっ」というからユキコはサエコに
「どうしたの」と問うと、サエコは半ば放心状態のまま「あの人がアザラシうどんの人なんだ」と
言ったか言わぬかの内に周りの私の友人たちがサエコユキココンビを囲み込み、
アザラシうどんについて熱弁することハマコウの如く、
ここじゃなんだからって言ってミスコン無視の居酒屋会議の夜はしっぽり持ち帰り。
結びましたよ、という要らぬ結び。
アザラシうどんについて少しはわかってもらえましたか?
暑い
7月11
拝啓
暑い中いかがお過ごしでしょうか?と、純日本人ばりに
地球温暖化ですね
突然ですがガガーリンといえば
「地球はどこだ?」じゃなくて
「地球は青かった」で有名なマーガリンさんですが
あの言葉にある疑問をいだいています、夫さん
つまりバターさんは
今の地球は濁っていると言いたかったんじゃないですか?
つまりこういうことです
クリームさんはあの以前にも実は地球を見たことがあって
その時チーズさんが見た過去の「地球は青かった」と、しかし今牛乳さんが見ている地球は青くないと
まとめると、ヨーグルトさんは前回来たときより地球は青くない!前回の方が青かった!と警告をしてたと
おっと気がつけばギニュー特戦隊のメンバーではないか、
ここ最近ドラゴンボール漬けだったからな
いつまでも青い地球